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LOUIS VUITTON ジッピーウォレット アルマ

LOUIS VUITTON ジッピーウォレット アルマの買取を致しました。

黒のレザーにさりげなくモノグラム柄が散りばめられており、大人な雰囲気を感じる商品です。

ヴィトンは当店では多く取り扱ってきましたが、その歴史は長くあまりにもバリエーションがあるので、実物を見たことが無い商品も当然ながらあります。

そこで今回は「まだ実物を見たことないけどいつかは見てみたいヴィトン商品」特集を組みます。

大変個人的な議題で申し訳ないですが、お付き合い頂けると幸いです。

それでは、いきましょう。

LOUIS VUITTON×Supreme

2017年に登場したヴィトンとSupremeのコラボ商品は1度実物を拝んでみたい商品です。

通常、ヴィトンの製品はダークブラウンとベージュの組み合わせのモノグラムやダミエ、今回のアンプラントのような黒が象徴的です。

中には明るい色合いの物もありますが、基本的には落ち着いた色です。

そんなヴィトンがストリートファッションブランドSupremeと融合した商品が販売されたのです。

Supremeのブランドカラーであるビビッドなレッドを採用し、白文字でブランドのアルファベットで表記したデザインは非常に魅力的に感じます。

ボストンバッグや定番のタイプもあれば、サイドポーチや財布など小物も充実しています。

他にもダウンジャケットやSupremeの顔とも言えるボックスロゴTシャツも展開されており、両方のファンに向けた充実したラインナップになっています。

中でも目玉商品として発表された赤色のトランクは大変注目を集めました。

かつて、Supremeはヴィトンのモノグラムをオマージュした商品を販売していましたが、商品名に「モノグラム」と入っていたり柄も非常に酷似していたり挙句の果てにはこれらを無許可でやっていたというギリギリな話もあります。

そこからブランドバリューを上げて改めて公認でコラボに結び付けるというのは何とも感慨深く感じます。

双方のコンセプトが一体となった商品、いつかは見てみたいとついつい思ってしまいます。

村上隆コラボ

日本のアーティスト村上隆氏とのコラボモデルも心惹かれる商品です。

村上氏は日本で活動している現代アートを中心に創作しています。

ポップな印象を受けるデザインが特徴でその色彩豊かなイラストや作品に魅了される人は多くいます。

そんな日本の現代アートのアイコニックである村上氏ですが、ルイヴィトンとの深いかかわりがあります。

彼のアートスタイルをそのまま反映したものはマルチカラーのようにいい意味でヴィトンらしくないカラフルな商品が展開されました。

更に、日本の漫画文化にも造詣の深い村上氏はデフォルメされたキャラクターをデザインし、それをヴィトンにプリントしたモデルも登場しました。

特に独特のパースで描かれたパンダがプリントされた「LVパンダ」はシュールな雰囲気も醸し出しつつ何とも言えない可愛らしさを感じられるので個人的には一度見てみたい商品ですね。

他にもドラえもんコラボの際にも村上氏はデザインを手掛けているのでそれもお目にかかれる日を楽しみにしています。

皆様のご自慢のヴィトン製品、お待ちしております。

冨田質店ではルイ・ヴィトンをはじめとしたブランド品や腕時計、ジュエリーなどの高価買取・質預かりを実施しております。

お査定は無料で致します。

「この財布、もう使わないな・・・」

そんな時は是非一度冨田質店へ!

皆様のご来店を心よりお待ちしております。

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CITIZEN プロマスターBN150-28E

CITIZEN プロマスターBN150-28Eの買取を致しました。

黒の文字盤とベルトがスポーティーな印象を与えます。

先日のSEIKOの5スポーツに続き、国産時計に注目してみましょう。

今回はCITIZENの歴史を振り返っていきましょう。

「日本の時計を作りたい」

CITIZENの創業は1918年のことでした。

創業者は山﨑龜吉で、屋号は「尚工舎時計研究所」とされていました。

この時の日本は明治から大正の時期で近代化の最中でした。

西洋の技術や文化を積極的に学び、持ち帰り、自分たちにも出来るようにする動きが活発に行われていました。

兵器、薬、語学といった近代技術から憲法や議会など近代的観念まであるとあらゆる事柄が海を越えて入ってきました。

その中には懐中時計もありました。

龜吉は海外留学でスイスやアメリカを訪れて、その中で時計に出会いました。

彼は時計の本場で時計の製作技術を学び、帰国後は日本でも時計を製作できる体制を作りたいと思うようになりました。

その思いで立ち上げたのが章尚工舎時計研究所でした。

時計は精密機械なため、開発と生産体制の確立は一筋縄ではいきませんでした。

それでも研究を進める事6年、ついに初の日本製懐中時計が製造されました。

この製品は完成当初には名前が付いていませんでした。

龜吉はこの時計の名前を知人の貴族院議員の後藤新平に相談したところ、シチズンと名付けました。

CITIZENとは「市民の」という意味があり、市民に広く普及することを願ってこの名前に決まったのでしょう。

この懐中時計の完成から更に6年後に尚工舎研究所を会社として運営することになります。

会社の名前は初めて作られた時計の名前にちなんで「シチズン時計株式会社」に決まりました。

シチズン時計はこうして国産時計メーカーとしての第一歩を踏み出したのです。

技術的革新の数々

戦後のCITIZENは苦境を乗り越えて大企業へと成長していました。

昭和後期になるとSEIKOやカシオなど他の時計メーカーも台頭してきました。

まさに群雄割拠の時代に突入しました。

しかし、国産時計の祖は伊達ではありません。

長年培われてきた技術は随一のものでした。

まずは1967年にクロノマスターを発表。

当時、携帯する時計は懐中時計から腕時計に変化していました。

ですが、腕時計は置時計に比べると精度は低いものでした。

そこでクロノマスターの開発に着手しました。

クロノメーターを初めて内部に埋め込み、スペースの少ない腕時計でも高い精度を維持できる機構に確立に成功しました。

このモデルはクロノメーター検定優秀級という称号も獲得しました。

そして、1976年にCITIZENは世界初の試みとなる太陽光電池を内蔵した時計を製作しました。

この時代はオイルショックが起きた影響で燃料資源などを見直す動きが出てきました。

そこでCITIZENは従来の電池とは全く異なる方法で時計を動かす手法として太陽光電池の採用に至りました。

ソーラーで稼働する時計は現在でも多数存在しますし、CITIZENがいかに先見の明があったのかを思い知らされますね。

そして遂には会社独自のソーラーパネルも開発してしまいます。

2001年にエコドライブエクリッセというモデルを発表しました。

この時計にはフレキシブルソーラーセルという素材で稼働します。

この新型太陽光電池は自在に変形、加工することを可能にした驚異の新素材でした。

これにより、時計のデザインを損なうことなく、動力源を確保できるようになりました。

初めて国産時計を作ったCITIZENは現在でも時計界の初めてに挑戦しているのです。

冨田質店ではCITIZENをはじめとした腕時計やブランド品、ジュエリーなどの高価買取・質預かりを実施しております。

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ダンヒル 腕時計

ダンヒル 腕時計の買取を致しました。

飾り気なく、シンプルなデザインでありながらアンティーク特有の気品のある商品です。

ダンヒルは腕時計のみならず様々なメンズファッションアイテムを販売する老舗ブランドです。

そのダンヒルはどのような成り立ちだったのか、それが今回のトピックです。

エンジン以外全て揃うブランド

ダンヒルは1880年にイギリスでアルフレッド・ダンヒルによって創業されました。

正確には1から会社を立ち上げたのではなく、彼の父の馬具会社からスタートしました。

アルフレッドは先代が行っていた馬具の生産・販売と並行して、オープンカーでも使えるゴーグルや防風コートの販売も始めました。

これはブランド創設当初、自動車の普及が本格的に始まったことが背景にあります。

オープンカー用のアイテムの販売後、コンドイトストリートに見製を出店しました。

このコンドイトストリートはイギリス有数の道路で、自動車の往来も大変多い場所でした。

人通りが多く、更に自動車の運転手が走っている途中に店を見つけ、そこで買った商品を更に広めてくれるという効果を狙ったのです。

アルフレッドの読みは当たり、コンドイトストリート店は当時の店舗の中でも売上1位をたたき出しました。

ドライバーの需要を的確に見極め、それらを形にした商品を次々と販売していき、ダンヒルはイギリス屈指のブランドに成長しました。

あまりにも多彩はドライブ用品が揃うので、ダンヒルは「エンジン以外なら全部ここで揃えられる」と言われるほどでした。

難局からの脱却

車用品ブランドとして順調に成長していったダンヒルでしたが、もちろん困難にもぶつかっています。

第二次世界大戦の最中、ロンドンが空襲を受け、甚大な被害が出ました。

ダンヒルも例外ではなく、ロンドンの店舗が全壊してしまいました。

この時、アルフレッドの息子ヘンリーは父に24時間以内に事業を再開すると約束した話は有名です。

ダンヒル再建のため、一族は奔走しますがそこへ追い打ちをかけるように創業者アルフレッドが亡くなってしまいました。

不幸の連続だったダンヒルですが、これらを跳ね除けたきっかけがあります。

1966年にアメリカの小説家トルーマン・カポーティが舞踏会にてダンヒル製のタキシードを着用し、彼の召し物に注目が集まります。

ちなみにトルーマンの代表作には「ティファニーで朝食を」があります。

ビッグネームの小説家が着ていたタキシードのデザインが脚光を浴び、ダンヒルを再評価する流れが生まれました。

その後、ダンヒルはタバコメーカーやカルティエなど様々な企業に買収されますが、一貫して紳士服事業を継続していきました。

そこから約20年後に世界3大ラグジュアリー・コングロマリット(複合企業)と称されるスイスのリシュモングループの傘下に入り、現在のラグジュアリーブランドとしての顔が残りました。

数々の災難にも負けずに事業を続け、イギリス代表のメンズブランドの地位を築くその姿は不屈のブランドと言えるでしょう。

冨田質店ではダンヒルをはじめとした腕時計やジュエリー、分ランド品などの高価買取・質預かりを実施しております。

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SEIKO 5スポーツ

SEIKO 5スポーツの買取を致しました。

カジュアルなスポーツウォッチですが、高価で買い取らせて頂きました。

この5スポーツは機械式を採用し、重厚感もある見た目でありながら非常にお手頃価格で購入できるモデルです。

その上、バリエーションが多彩なので、自分好みのスポーツウォッチをリーズナブルに買えることから非常に人気が高い商品です。

その人気は日本のみならず、アジア全体という市場規模が物語っています。

また、他社とのコラボも積極的に行われるモデルなので、非常に幅広いジャンルのファンからの支持もある点も強みでしょう。

今回は5スポーツのコラボモデルをいくつか紹介していきます。

ゲームやアニメとのコラボ

日本が誇る文化、アニメ・ゲームと手を組んだコラボウォッチは多く登場しています。

いくつかの具体例を挙げていきます。

まず、格闘ゲームというジャンルの礎を築いたストリートファイター。

いまや、e-sportsとしてプロが競うゲームですが、SEIKOとコラボを実施しました。

ゲームに登場するリュウやケン、春麗などのキャラクターをイメージしたカラーリングがされています。

他にもジョジョの奇妙な冒険もコラボ商品として限定ウォッチが販売されました。

こちらもキャラクターをイメージしたデザインとなっており、各種1000本限定で生産されました。

このコラボ商品は登場人物のファッションを参考にしているので、非常にビビッドなデザインになっています。

スターとのコラボレーション

世界的スターともSEIKOはコラボしています。

例えば、ブルース・リーのコラボモデルが55周年記念として生産・販売されました。

その身のこなしと截拳道で世界を魅了し、香港映画ブームの火付け役とも言えるブルース・リーですが、彼はスポーツ5の愛用者でもありました。

文字盤にはブルース・リー自ら描いた龍が印刷されており、ベゼルには截拳道の精神を表した漢字が配置されています。

また、裏ぶたには陰陽のマークが施されており、時計全体から彼の精神を感じられます。

時計本体だけでなく、ベルトも非常に趣向を凝らしたものになっています。

ベルトはレザーとナイロンの2種類用意されています。

レザーは黒が採用されており、これは彼の道着からイメージしています。

一方、ナイロンベルトは黄色と黒の2色で彼の出演作品「死亡遊戯」コンセプトになっています。

このように非常に彼をリスペクトした作られた商品と言えるでしょう。

もう1つの例としてはブライアン・メイのコラボウォッチを挙げましょう。

あの伝説のロックバンドQUEENのギタリストであるブライアン・メイとのコラボ商品は好評だったこともあり、第2弾も発表された珍しいモデルです。

彼の相棒のギター「レッドスペシャル」をそのまま時計に落とし込んだデザインは必見です。

ボディはレッドスペシャルをベースとした赤と黒を主軸にそれらを金のベゼルで囲んだスペシャルモデルになっています。

枠とベゼルにゴールドが使われているのは彼のアルバム「GOLD SERIES」に由来するものです。

ベルトには5本の細いストライプが入っており、ギターの弦を想起させるデザインになっています。

ギターのデザインだけでなく、細部にまで小粋な演出が施されており、ファンにとってたまらないモデルと言えるでしょう。

非常に多くのコンテンツとコラボしているため、もしかするとこれを読んでいるあなたが好きな物とのコラボウォッチが見つかるかもしれません。

時計で推し活というのもアリではないでしょうか。

冨田質店ではSEIKOをはじめとした腕時計やジュエリー、分ランド品などの高価買取・質預かりを実施しております。

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クロエ ダリル465 財布

クロエ ダリル465 財布の買取を致しました。

特徴的な鎖状のデザインが目を引く商品です。

前回に引き続き、あまりブログで触れてこなかったブランドですので今回はクロエに焦点を当ててみましょう。

レディーメイドのニュースター

クロエは1952年にフランスで誕生しました。

創設者はギャビー・アギョン、元はエジプト貴族でした。

彼女は第二次世界大戦の影響により、フランスに移り住んできました。

ギャビーは移住先であるパリの洗練されたファッションに感銘を受け、自身のブランドを立ち上げたいと思うようになりました。

そして、その憧れが1952年に現実になりました。

ちなみにクロエ(Chloé)はバレエの演目「ダニフスとクロエ」に由来しています。

この演目のクロエのダンスがギャビーは大変気に入ったようで彼女のように美しくあるためのブランドという願いを込めた名付けたとされています。

ブランドの立ち上げ後はギャビーはカフェで初のファッションコレクションを開催し、そこで自身の実力を遺憾なくアピールすることに成功しました。

こうして、クロエは華々しいデビューを果たしました。

クロエの偉大な功績は高級メゾンの在り方に革命をもたらしたことにあります。

クロエ登場以前のファッションブランドは一から要望を出して、形にするオートクチュールが主流でした。

そのため、値段も非常に高く庶民にとってオーダーメイド品であるメゾンファッションは手の届かない存在でした。

ですので、一般市民は既製品しか選択肢にないという状況でした。

この状況を打破したのが他でもないギャビーでした。

彼女は高品質でなおかつ、気軽に着れる既製品を生産し、販売しました。

このレディーメイドでありながら、高級感もあるクロエ製品は比較的安価なこともあり、一般層から高い支持を集めることになりました。

このブレイクスルーが現在のクロエの立ち位置の原点と言えるでしょう。

クロエの特徴

続いてはクロエの商品の特徴をいくつか見ていきましょう。

まず、シンプルなデザインはクロエの大きな特徴です。

手触りが良い上質なレザーを用いているので、それを最大限に活用するためにこのような傾向があります。

また、2001年にはSeebyChloeが創設されました。

これはクロエの商品を更に知ってもらうために、手に取りやすい値段で商品を販売するブランドになっています。

ただし、安価だからといって低品質ということは決してありません。

いかにリーズナブルな商品でも妥協せずに作っているからこそ、クロエは世界的ブランドになれたのです。

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PRADA 三つ折り財布

PRADA 三つ折り財布の買取を致しました。

コバルトブルーの生地がとても鮮やかに見える商品となっています。

今当店のブログを見返してみるとプラダの買取は結構珍しいようですね。

せっかくの機会ですので、今回はプラダに焦点を当ててその軌跡を辿ってみましょう。

兄弟によるミラノブランド

プラダは1913年にイタリア・ミラノにて創業されました。

創業者はマリオ・プラダとマルティーノ・プラダの兄弟です。

プラダ兄弟はミラノにて革製品店を開店し、2人で製品の作成と販売を行っていました。

ちなみに店の名前は「フラテッリ・プラダ」で意味は「プラダ兄弟」だそうです。

彼らはクロコダイルやゾウ、セイウチなど当時では珍しい動物を用いた革製品を生産しており、手掛けたトランクやコートなどは非常に好評でした。

その噂はたちまちミラノからイタリア全土に、イタリアからヨーロッパ諸国へと順調に広がっていきました。

挙句には彼らの評判をイタリア国王にも届き、王宮の家具や服飾の製作も依頼されるほどにもなったのです。

プラダ開店から国王お抱えで革製品を作るまでわずか6年ほどでした。

あっと言う間に人気ブランドへの道を進んでいったのでした。

低迷、そして復活

ところが、第二次世界大戦期になるとプラダは低迷期に入ってしまいます。

戦争に多くのリソースを割くことになり、ぜいたく品にお金を使う余裕が無くなっていたことが原因でした。

そこへ追い打ちをかけるように1958年に、創業者の1人マリオが亡くなってしまいました。

かつての栄光は見る影もなく、プラダは非常に厳しい時代を過ごすことになりました。

そんな中、ある人間がプラダの復活をかけて立ち上がります。

彼女の名前はミウッチャ・プラダ、あのマリオ・プラダの孫でした。

元々、大学で政治を学んでいた彼女はそのままオーナー兼デザイナーとして嵐の中のプラダの舵切りを行っていくことになります。

ミウッチャはこれまでのプラダのイメージを全て覆す戦略を考案しました。

それまでの伝統的な商品とは異なる斬新な商品を多く生み出しました。

中でも有名なものはポコノシリーズでしょう。

従来のプラダ製品は創業当初から革製品を主軸に商品を展開してきました。

しかし、ミウッチャが提案したポコノはイタリア軍のパラシュートなどに利用されていたナイロン素材の商品でした。

これはブランド内部でも大きな反発が起きました。

この反対を押し切って彼女はそのまま販売を開始、結果として大成功に終わりました。

彼女の天性のセンスをアピールするには十分すぎる功績でした。

その後、彼女はセカンドブランド「miu miu」を立ち上げました。

これはより幅広いターゲットを想定した商品を販売するブランドで価格もプラダよりリーズナブルでデザインも淡いピンクといった若い女性に支持されやすいブランドでした。

ですがプラダを再建することは天才ミウッチャでも一筋縄ではいかないものでした。

では、プラダはどうやって復権したのか?

最後のピースはパトリツィオ・ベルテッリなる人物です。

後のミウッチャの夫となる人物ですが、この出会いは非常に強烈なものでした。

なんとパトリツィオはプラダのコピー品を作り、販売していたのです。

ミウッチャは自分たちのブランドのコピーが作られているという事実を知り、直ちにパトリツィオに抗議しました。

すると、更に驚きの返事が返ってきました。

内容は「ビジネス提携をしよう」という提案でした。

彼女はその条件を受け入れ、経営に協力させました。

パトリツィオは優れたビジネスマンでもありました。

彼は経営の面でミウッチャを支え、プラダの再建に大きく貢献したのでした。

このように才能ある2人の手によってプラダは再びイタリアを象徴するファッションブランドの座へと返り咲いたのでした。

ちなみにミウッチャは多くの名言を残していることでも有名です。

特に「何を着るかは世界に向かって自分をどう表現するかということよ」という格言は彼女のファッションに対する考えを端的に表した言葉と言えるでしょう。

冨田質店ではプラダをはじめとしたブランド品やジュエリー、腕時計などの高価買取・質預かりを実施しております。

お査定は無料で致します。

地域No.1の買取値・預かり値を目指しております。

「このバッグ、もう使わないし処分しようかな・・・」

そんな時は是非一度冨田質店へ!

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