純銀小判の買取を致しました。
銀ですが重量もあるので、買い取らせて頂きました。
小判というものは貴金属で作られているものがほとんどです。
しかしながらどういう風に使われ、どれくらいの価値があるのかは知られていません。
今回は小判の豆知識やトリビアなどを紹介していきます。
小判の起源
小判というと江戸のイメージが強いですが、生まれ自体はそれよりも前になります。
760年に「開基勝宝(かいきしょうほう)」という名前の小判が作られました。
これは日本で初めての金貨として国の重要文化財に指定されています。
ただし、生まれこそしたものの当時は穴の開いた銅銭がよく使われたため、普及はしていませんでした。
金貨が一般層にまで広く流通し始めたのは戦国時代からです。
全国の様々な武将が自身の領地で使える金貨を作りました。
豊臣秀吉が作った天正長大判などが代表例に挙げられます。
その後、
徳川家康が天下を治めると全国の貨幣が統一されました。
この時に天保大判や慶長大判などよく認知される小判・大判の形になりました。
小判は大判よりも小さい分、流通量も大変多かったとされており
現存するものも多くあります。
小判の価値や歴史
江戸時代に貨幣の企画が統一されたことで、身分場所問わずに使われた小判ですが、現在の円に換算するのは難しいとされています。
理由としては今と江戸時代当時では貨幣の価値や行政の仕組みなどが全く異なるため当てはめて考えるのが困難だからです。
当時お米1石(150kg)が1両とされていたので、2024年現在5kgのお米の平均価格が2266円ということ考慮すれば、
150kg分は67980円に相当します。
あくまで概算ですが、それほどの価値になります。
小判の種類
徳川家康の元、作られたのが慶長小判が作られました。
表面にたがねで目を刻むことで偽物対策を行っていました。
その後の天保小判は有名なものです。
ローラーで金を延ばす技術を導入するなどより効率的に、精巧な小判を作れるようになりました。
それだけでなく、この小判の裏面には様々な文字がランダムで彫られています。
中でも「大吉」と彫られた小判は縁起物として贈り物や家の中のお守りなどに使われ、非常に評判が良いものでした。
一方で徳川綱吉の時代の元禄小判は良くないことが起きたようです。
元禄時代、幕府は財政難となり至る所で緊縮政策を行ってきました。
その政策の中に小判の改訂も含まれていました。
勘定吟味役(法令や経済関連を担当する役人)の萩原重秀が主体となって行われました。
具体的に言うと小判1枚あたりに使われる金の量を減らしたのです。
これにより、以前まで同じ金の量で2枚作れていた金貨が3枚作れるようになりました。
質を落としたことでたくさん金貨を発行し、世の中に流し経済の立て直しを画策しましたた。
ですが、最初こそ良かったのですが、結果としてインフレを引き起こしました。
それに加えて金の量が減ったことで偽物も横行し始めます。
「悪貨は良貨を駆逐する」という格言がありますが、まさにその通りのことが起きたわけです。
こういう部分は現在の経済とも繋がっていますね。
非常に興味深い話がたくさんありますので、皆さんも1度調べてみてください。
冨田質店では小判の買取・質預かりを実施しております。
まずは、値段を聞くだけでも大丈夫です!
皆様のご来店を心よりお待ちしております。